2011/09/02

エネルギー政策について考える

原子力発電所の事故を契機にエネルギー問題についての議論がしきりになされるようになってきたね。

しかし、マスコミで発言している“自称”識者の意見も、ネットでの一般人のそれもなんか偏っているものが多いんだよなぁ。こういうのって、すぐに原子力がコストが安い(事故ったら?w)だとか、自然エネルギーの方が進んでいる(結局何が?w)、とか、火力の方が安全性が高い(石油が枯渇したら?w)、だとか、突っ込みどころ満載で、自分たちの利点ばかり主張しているものが多い。

以前のエントリーでも書いた事があるんだけど、“最適解”ってのはそんなに簡単なもんじゃないんだよね。そして安定なシステムってのは必ず揺らいでおり、そして自立的に安定化するもんなのだよ。

文系の中途半端にお勉強のできる馬鹿に限ってよくある話なんだが、“最適解ってのはわかる”もんだと思ってやがるw ちがうね。静的な意味では決してわからないんだよ。わかるわけがない。動的な安定性ってのは静的なモデルでは表現できないのだから。表現する為の次元が一つ以上足りないでしょ。2次元の絵では、3次元の立体を正しく表現する事ができないのと同じ事。

この動的な安定性ってのは、生物とかを少しでも勉強すると当たり前のように書いてあることなんだが。要するに多様な何かがいて、お互いにけんかして、協力して、そして動的に安定な状態を作っている。そしてそれはストレスに対して強いし、復元力もあり、状況の変化に対して柔軟に形を変えて対応できることも意味する。

話が理屈っぽくなってかえってわかりにくくなってきたがw 要するに色々な発電方法があるが、それぞれがそれぞれ異なる複数のパラメーターを持っているわけだ。パラメーターを別の言葉で言い換えると、異なる利点と、異なる欠点を持っている。そして、それは、どれがベストという最適解は無く、状況が変われば最適解も変わる。最適な依存すべき割合も変わる。しかも、そこに動的でね、っておまけまでついてくる。火力はすぐに止めたり付けたりできるけど、原子力はそんな簡単に止めたり付けたりできないでしょ。タイムスケールも重要なのだよ。

異なる発電方式が存在し、お互いに切磋琢磨しながら多様性を保ちつつ発電する。もちろん、静的に考えればそこに無駄が存在するだろう。しかし、その無駄とはある意味安全マージンとも言える。環境の変化にもついていくだろうし、復元力もある。

そもそも、資本主義が共産主義や社会主義に対して、前世紀間違いなく結果として勝利したのは、多様化し競争する世界の色々な意味での強さが理由だったろうに。それを忘れて、あるいは無視して、そもそも“予測できないはずの理想”を、それがあるものとして無理矢理“決めつけて”、それを政府で無理矢理仕切ろうとしているところに、その本質の気持ち悪さ、お花畑さとでもいったらいいのだろうか、を感じる。

エネルギーってのは人類の生命線を握っているんだから、間違いは許されないし、だから逆にゴチャゴチャしてていいんだよw